Sep 14, 2023
ジブリの「君たちはどう生きるか」2回目を観て(風立ちぬとアーヤと魔女もちょびっと)
君たちはどう生きるか(以下「君生き」)だけど、12日に2回目を見てきた。
前回が7月18日なので、2ヶ月足らず、空いている。
そろそろ見るか、と思うまで、そのぐらい掛かったということだ。
初回を観てのレビューが下記エントリー。2つ目を書くとは思わなかった。
http://blown-lei.net/endive/blosxom.cgi/letterbox/20230818a.html
3つ目を書いてしまった。
http://blown-lei.net/endive/blosxom.cgi/letterbox/20230916a.html
20日、追記。
うちのレビューを読もうかという人へ。書かれた順番に読まれることをお勧めする。
最初のは「混乱して、分からんことがあるなりに書いてるなあ」というレビュー。
2つめは「見落としを確認して、言い訳を書いてるなあ」というレビュー。
3つめは「幻惑されてたことに気付いて、多少は考える頭が戻ったかなあ」というレビューだ。
しかし、内容は概ね重なってないので、3つでセットだし、そのほうが内容を理解しやすいと思う。
なお自分用のメモでもあるので、今後も何か思い付いたら補足を追記する。
27日、追記。
4つめのレビュー。いちおう、まとめだ。
http://blown-lei.net/endive/blosxom.cgi/letterbox/20230927a.html
2回目を観たのは、初回に観た時に間違えたり記憶が曖昧だったことを確認しようというのがあったんだけど、充分に出来なかった。メモを持っていくのを忘れたのだ。だから今回も記憶頼りだ。それでも、まあ、収穫はあった。
予め書いておくけど、この映画は「何も知らない状態で観る」のがデフォルトらしい。
駿が意図することに乗ったほうがいいのかな、と多少でも思ってる人は、こんなエントリーを読む前に、映画館に行くべきだと思う。今回、2回目を観て、けっこうそれは大きいと思ったので、ここに書いておく。
さて、2回目を見る前に「風立ちぬ」をレンタルして観た。
何となく、観ておく必要があると思ったのだ。
公開は10年前だ。何でその時に観なかったのかははっきりしないが、たぶん子供がまだ幼稚園で小さくて、忙しくて観なかったのだろう。必ず全部観るという程の熱心なファンじゃないので、そのままになったんだと思う。
しかし、なんだかな、あのポスターが気に入らなかったというのはあるかも。とっちゃんぼうやが飛行機を見上げて、なんだこの中身無さそうな主人公は、という印象だったのだ。
まあ、機会があったら見るでいいかも、と思っていた。変な世評ばかりだったし。
実際に観てみたら、普通にすごくいい映画だった。
駿は当時これで引退と言ってたけど、立派なものじゃないか、と思った。
主人公は、ポスターから僕が受けた印象とは全く違って、すごくしっかりしたいい奴だった。
風立ちぬは、機械とロマンスと歴史の映画だ。現実の映画であり、生きざまの映画だ。
君生きには、それらがない。ファンタジーと少年と母の話だ。夢の中、心の中の話であり、生きざまから逃亡した映画だ。
つまり2作で対になっている。
片や普通にすごくいい映画で、片や意味不明な問題作だ。
いい対である。
人は片方だけではやれないだろう。
僕は未来少年コナンで宮崎駿を意識した人間なので、足りない石はSFだと思ったりするけど、どうなんかな、さすがに今の時代、SFを駿に要求するのは厳しいかな。
まあ、君生きは宇宙から来た何かが、なので、ギリギリSFなのかもしれない。大伯父周辺の雰囲気はSFっぽい。
このエントリーでは、前回に書ききれなかったこと、新たに思ったことを書いていく。
順不同で箇条書きみたいになるので冗長だろうが、自分用のメモなのでいいのだ。
まあ、ネタバレばかりになる。
しかし、いざ書こうと思ったらどこから、と思うんだけど、まあ、一番に気になってたとこから。
2024.03.20. 追記。
3月17日、3回目を観てきた。そこで確認したことがあって、このセグメントには、間違いがあることが分かった。
書き直すのは面倒なので、説明は後述する。
ひみちゃんのこと。
主人公の真人が「なつこさんを探している」と言った時に「妹だ」と言っているのを確認した。
これに対して真人は、ひみちゃんが母親だと、明確に認識したのかどうか、はっきりしない。そのまま曖昧なままストーリーが進んでいく。
真人はひみちゃんに、自分の母親は火事で死んだと話している。ひみちゃんに未来を宣告したことになるのだ。美味しいジャムパン食ってるときだったと思う(このあたり文脈を忘れている。メモを忘れたのが悔やまれる)。でも、ひみちゃんはけろっとして聞いていて「私の母親もそうだ」などと言う。
そういう話じゃないだろ、分かってんのか、君たち。
いろいろ考えて、補足を追記(9月18日、多少、分かりやすいように書き直した)。
真人が母親は火事で死んだと言ったとき、ひみちゃんに未来を宣告したことには、実はまだ、ならない。
観客から観たら、まだこの時点では、ひみちゃんが真人のことを「自分の息子だと認識していない」可能性が、ある。
(逆に言えば、観客にも、ひみちゃんがひさこさんだという確信は持てない:補足更に追記:だって、なつこさんの姉が、ひさこさん1人とは限らない)
ひみちゃんの立場から見たら、
真人から、なつこさんが真人の父親と結婚している、と聞いただけでは、
「真人の父親の前妻が、なつこさんの姉=ひみちゃんであり、だから真人はひみちゃんの息子」という認識は、
まだ、出来ないのだ。
だって、父の前妻がひさこさんだなんて、真人は一言も言ってないのだから。
(考えてみたら厳密に言えば、前妻がひさこさんだとしても、真人がひさこさんの子とは限らない)
しかし、その後、石の産屋で、ひみちゃんは真人の母であると宣言している。
この時点で、
どうやら最初から、ひみちゃんは真人が息子だと認識していたらしいことが、観客から見ても、はっきりした。
だったら、ひみちゃんは、真人の「火事で死んだ」という発言に、驚かないわけがない、のだけど。
なんか、ややこしくて、僕がどこか間違ってるかもしれない、、、
いや、この際なので敢えてここに追記しておくが、ひみちゃんから、真人に、母であると告げる場面は、劇中に全くない。はずだ。僕が2回も観てるのに見落としているのでなければ。
補足、ここまで。
というか、初見のとき、この時点で僕は、ひみちゃんが真人の母だと確信していなかった。妹?どゆこと?、母なの?みたいな感じだったのかな、真人がそれをちゃんと聞いて知ってるかどうかすら、僕の中では曖昧になっている(というか、こんな会話が交わされる時点で、真人には伝わってない認定が僕の中では出来ていたと思う)。
なつこさんの石の産屋で真人が気を失い、ひみちゃんが母だと明言したことで、僕はようやく明確に認識ができた。
初見は、そういう感じで、いろいろ曖昧だったということだ。
今回は最初から理解して観ているので、全く受ける感触が違った。
これは実は、この映画の大きなトリックなんだと思う。
2024.03.20. 追記の続き。
何故か僕は、2回も観たのに、真人はひみちゃんに「母さんは火事で死んだ」と告げたとばかり思っている。
それに対して、ひみちゃんが「私も」と応えていると思い込んだ。
それは間違いだったと、3回目を観て気付いた。
実際の画面では、真人は「母さんは死んだ」としか言っていない(はっきり火事で死ぬと告げるのは、それぞれの現実の世界に帰るまぎわになってのことだ)。
何でこの時点で告げたと思い込んだのか分からない。
ひみちゃんがあまりにも平気の平左で真人の言うことを受け入れるので、最初から知ってたんだろうと認識してしまったのだろう。
さて、、、
そうした経緯で僕は、ひみちゃんの母親も火事で死んだという、僕だけに通じる設定を抱え込んだ。
でも僕は、勘違いか聞き間違いから生まれた、この根拠が無い思い付きのような設定が、僕なりの解釈の中ではしっくりと納まってしまった。
その流れで3つ目のレビューも書いている。
そちらにも注記を入れておこうと思う。
閑話休題だ。
最後に各々の世界に帰るとき、
真人はひみちゃんに、帰ったら火事で死ぬことになるから、こっちに来いと告げる。
ひみちゃんは、真人の母親になるならそれでもいい、と言って自分の世界に帰っていく。
あんたら、全部わかってたんかい、、、
どうにも、こんな重大事が宙ぶらりんなまま話が進んで、最後にパタンとケリがつくという、最初に観た時は、僕はこれにはすごく混乱したようで、どうなってるのか十分な認識ができていなかった。
脈絡とか理性的な筋道とか考えたら説明しがたい。
だって、真人にとっても、ひみちゃんにとっても、驚いておかしくない、というか驚くのが普通な話で、物語の進行がストップするような案件だ。
納得がいく説明は、夢の中などではそういうのは関係なくなる、現実に帰るときに、夢から目が覚めるときのように、思い出すんだろう、というような。だから、自分たちの世界に帰る直前に、あのこと分かってたんだ、みたいなことを言い出すという。
そういう説明で、自分を納得させている。
大伯父が作った世界は、受け入れがたい現実を、柔らかな包帯に包むような、そういう世界なんだと思う。
主人公の名は「まひと」。麻痺してる人だ。夢の世界に行くということは、覚醒から遠くなる。ファンタジーとはそういうものだろうと。
そこに「母」がいるのが真人の夢だ。
真人は、青サギの誘いに「母さんは死んだんだ!」と。キリコ婆さんが罠だと言うのに「知ってる」と。
彼は、現実を受け入れないといけないことを知っている。
それでも、大伯父が作った世界に踏み込んでいく。
なつこさんを、取り戻さないといけない。それは、現実を取り戻すことと同義だ。
現実の母さんは、死んでいる。
夢のような世界で、まだ生きている母、ひみちゃんと出会った。
夢から覚めたら、忘れないといけない。
しかし、石を持ち帰ることは出来る。
真人が持ち帰った石、僕はこれが「強力なお守り」なんだと思っていたけど、画面上、青サギはキリコ婆さんの人形のことを言ってるように見える(実際、キリコさんは人形を真人に手渡すときにお守りだと言った。しかし、その場に青サギいたから知ってるんじゃなかったのかな、、)。
青サギは、真人の記憶があることを訝り、真人がポケットから出した人形と石を見て、強力なお守りだと言い、石を持ってくるなんて、これだから素人はだめだと言いながら、じきに忘れるからまあ良い、あばよ友達、と言って飛び去り、直後に人形はキリコ婆さんに戻る。
あれ、石はどうなったんだろう。
つまり、強力なお守りがあったから記憶がある、という文脈に見える。
しかしそれが、人形なのか石なのか、そこは実は明言されていない、ように見える、かな。
どうなんだろうね、、、
エンディング、真人は東京への出立に際して「君たちはどう生きるか」を鞄に詰めて、部屋を後にする。2年経っても、彼にとって大事な本であり続けている。
大伯父の提案を受け入れ、ひみちゃんがいる世界を維持することは、母が遺してくれた「君たちはどう生きるか」を、真人が生まれて母と共に過ごした10数年を、捨てることだ。
そういえば真人が石を拾ったのは、
大伯父に会うため、流星雨の夜空の下を、ひみちゃんと一緒に、歩いていた時だった。
このあたり、なんというのだろう、時間軸とか空間とか、超えた何かを感じる。一瞬は永遠、永遠は一瞬だ。上手く表現できない。説明できなくていいような気もする。
ひみちゃんは、彼女の現実世界に帰る。
帰ってもいいと思えたのは、
真人と会うことが出来たから、真人を生みたいから帰るということなら、
まあ、若干の物議を醸しそうなラブストーリーという見方も出来る。駿のコンプレックスがどうのという話もあるが、ここでは深入りしない。アングラファンタジーなら、ああ、そうなんか、と許容される話、と思う。
大伯父の世界にとらわれた鳥たちと、自分の意志で留まっている人間たち。
真人となつこさん、ひみちゃんは自分の世界に帰り、キリコさんは婆さんに戻った、のかな。インコとペリカン、青サギも帰った。大伯父の世界が壊れて、生きる者は生きる者の世界に、死者は死者の世界に、其々帰ったということなのだろう。
真人がなつこさんと戻ると決めたとき、ひみちゃんは戻らないという決断も出来たのか、それは大伯父の世界と一緒に滅びるということ、なのか、、、
もしも、ひみちゃんが現実世界に帰らなかったら、真人が生まれてこなくなる。
これはこれで困る。
この辺り、謎だ。
ひみちゃんは生きている人なので、あの世界が滅びたら、自分の世界に帰るしかないのかな。
笑って帰れたので、良かったのかな。
真人から見たら、母に夢の世界で認められて、過去を受け入れて帰ることが出来た、というストーリー。
ひみちゃんから見たら、将来出会う息子と会って、未来への希望を得て帰ることが出来た、というストーリー。
なんだけど、、
思いついたこと。
なんで真人は、呼ばれたのか。
実は、ひみちゃんを帰すため。
ひみちゃん、じきに帰るだろうと大伯父は思ってたけど、居付いてしまった。早晩崩壊する彼岸の世界に。崩壊に伴って、本人の意志ではなく帰らされることになるのは、たぶん、ひみちゃんにとって良くないのだろう。
なつこさんが、真人が、大伯父の世界に呼ばれたのは、大伯父が描いたシナリオ。
たぶん、あの世界に親和性が高くない人は、呼べないのだ。
最初は真人だけ呼ぼうとしたが、無理だったので、なつこさんを引き込んで人質にした、、、
違う、最初に呼ぼうとしたのは、なつこさんだ。ひみちゃんの妹だから。
真人が来る前に、なつこさんと青サギの間に駆け引きや闘いがあったのだろう。そう考えたら、弓矢で真人を助けるときの手練っぷりに説明が付く。
そして、それは結局、成功しなかったのだろう。
なつこさんは、こうした不可思議なものごとは、夫には何も話していないのだろう。姉がそうだったように。まあ、ふつう信じられないだろうから。
そこに真人が来る。
大伯父のターゲットは妹から息子に変わった。
そういうことなのではないか、、、
30日、追記するのをを忘れていたので追記。
他のサイトのレビューで、弓矢で真人を守ったのは、夢の中での出来事という説明があった。
そのほうがたしかに、より整合性がある解釈だと思う。
その説明に沿えば、大伯父が最初に呼ぼうとしたのはなつこさんで、真人が来る前に青サギと接触があった、という考えは、必然性が薄いということになるかもしれない。
ひみちゃんに、真人を帰さないといけないと言っていたり、真人が石を受け取れない、現実に帰ると言った時に、強く引き止めもしない。なんでかな大伯父、と思っていたけど、それがシナリオ通りだからなのだろう。
どうだろうな、、、
こんなこと書いてて、いいのかしら。
いくつか小さい話というか、メモ書きを。
絵画をモチーフにしていると思われる画面がある。

ベックリン:死の島
https://en.wikipedia.org/wiki/Isle_of_the_Dead_(painting)
ヒトラーが所有してたことがあるそうだ。「風立ちぬ」でも使われている。

ターナー:The Fighting Temeraire, tugged to her last Berth to be broken up(解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号)
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Fighting_Temeraire
海と船、空のイメージ。雲の形は違うが、色遣いや雰囲気は非常に近い気がする。
絵のタイトルがちょっと凄い。
大伯父の内心を語っているようだ、というのは読み過ぎか。

ゴヤ:砂に埋もれる犬
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Dog_(Goya)
大伯父が石を積んでいるあのだだっ広い部屋のイメージ、何処かで、と思うのだけど分からない。なんとなくこういう雰囲気の絵が、何かなかったかなと思うのだけど。
僕が思い出せる絵のうち、イメージとして一番近いのが、黒い絵の犬。
他にも、これは元ネタがあるんだろうな、見覚えがある気がする、という画面はあるが、分からない。
画面ではないが、真人が下の世界に降り立ったときに、門に書かれていた言葉「我を学ぶ者は死す」について、画家、中川一政のエピソード。他に出典はあるらしい。
https://www.city.komae.tokyo.jp/koho/128591.html
25日、この項目、いくつか補足追記する。
https://www.city.komae.tokyo.jp/koho/128591.html
小池邦夫のうちあけ話 6 絵手紙のひと 広報こまえ(狛江市)から、引用。
僕が師と仰いだもう一人は、洋画家の中川一政さん(1893~1991)です。(中略)
歩き方や話し方まで似てきた僕にある日、中川さんが言いました。「我を学ぶ者は死す」。
中川氏は、薔薇の絵を沢山描いたらしい。
https://ameblo.jp/moji-taro/entry-12816540105.html
「君たちはどう生きるか」ネタバレ解説3 地獄の門、バラの謎、「我を学ぶ者は死す」と墓の主の正体 | MOJIの映画レビューから、引用。
この言葉の出典を探ってみると、林房雄の「四つの文字」という小説に行き着きます。
林房雄は1903年生まれの小説家・評論家。
Youtube上に「四つの文字」の朗読が上がってるので、聞いてみた。
語り手である「私」は、南京政府の大臣である男を評して「虚無」だと言っている。
虚無が掲げていた四文字が「学我者死」。そして、戦争が終わると大臣は自死する。たぶん決められていたことであるかのように。
決められていたかのように崩壊する大伯父が作った下の世界、そして大伯父自身と重なる。
石の墓の中に封印されているものは、それこそ虚無か。
虚無という言葉は、漫画版ナウシカにも出てきた。しかし、ナウシカ作中で墓所がいう虚無と、四つの文字で言われる虚無は、言葉は同じでも意味する中身は異なるように感じる。しかし、はっきりしないので説明はしないが。
下の世界の入り口直下に、虚無?が封印され、あの世界が作られている。
あの世界が崩壊したら、多分、墓に封印されていた何かは、開放されるのだ。
どこにいくのだろう。
もしかしたら、インコの糞になるのだろうか。
糞をするということは、生きているということなのかもしれない。
ペリカンは、キリスト教において、全ての人間への愛によって十字架に身を捧げたキリストの象徴。
胸に穴を開けてその血を与えて子を育てるという伝説から、とのこと。
自己犠牲の象徴である鳥が、生まれに行く者たちを食うというのがどういう世界観なのか、、、
https://en.wikipedia.org/wiki/Pelican
真人とひみちゃんが大伯父のいるところを目指す際に、夜空に流星群がみられていた。
宮沢賢治の銀河鉄道の夜に出てくるペルセウス座流星群のイメージ。
日本ではお盆と重なる。
そういや、ひみちゃんがワラワラを守るときに花火を上げてたなあ。
鳥の糞は、初回の時ほどには驚かなかった。なんだか少なくなったように感じた。見慣れたのか。
まさかと思うが、流星雨と糞の雨を重ねるとか、そういう意味はないよなあ、、、
今回、主人公が「真人:まひと」だと確認した。
初回のあと、なんていうんだったっけ?となって、だから前回のレビューは「主人公」で通している。ネットで調べたらわかるだろうって?、そんなことするのは、なんだかすごく口惜しいじゃないですか。
さて、 今回、2回目を観て、ある程度は理解して観ているので、そこに上乗せして観ていけばいいので、初回とは全く受ける感触が違った。前情報なく観たというのは、凄く大きかったんだと思う。
これは、君生きのトリックだと書いた。
前情報があれば、そういう覚悟なり得られた情報を支えに、実際に映画からの情報を上積みできる。
君生きはそうではない。
目の前の映画から得られるものが全てだ。
前情報全く無しで情報量の多い映画を観ると、幻惑される。
良くも悪くも、映画の世界に搦め捕られていくか、弾き飛ばされ離脱するか、どちらかだ。
ストーリー展開の情報が多く、隠されているものも多いし、画面からの情報もすごく多い。
こういう話はこういうふうに展開していくだろう、という予測が難しい。
脈絡なく意味深な台詞が投げかけられる(例えば、キリコさんから「死に匂いがする名前だ」とか)。エピソードも意味不明だ(例えば、なつこさんが弓矢で真人を救うとか)。
そのまま投げっ放しで、受け止める枠がこっちにはないので、わけが分からなくなっていく。
なんというか、そういう作りになっている。
多くの人達が分からないと戸惑うのは当然で、たぶん、それを魅力だと思えるかどうかなのだと思う。真人と一緒に暗い夢を見るような体験を、肯定的に捉えられるかどうか。
僕がアングラファンタジーと云ったのは、そういうことだったと思う。
穿った見方をするなら、回収できない伏線を放置することにしたのを誤魔化しやすくなるかもしれない。しかし、駿の映画ともなれば、理屈はどうとでも後付けできるもの、と今回、僕は思ったので、そういう消極的な方法論ではないだろうと思う。
21日、追記。なんでこんな分かりにくくしているのか、今更思い付いたので3つめのレビューに考えを追記した。
これは、真人とひみちゃんを救うために駿が仕掛けた大掛かりな罠なのだ。そこに観客もろとも落ちるがいい、ということなのだろう。
分かりやすい映画を見たかったら、風立ちぬを見ればいいと思う。
実際、今回初めて見たけど、とてもいい映画だと思った。昭和時代の日本の名画の伝統を感じる。
たくさんの飛行機、機関車、田園、街、工場、人々のくらし、震災、時代、夢、戦争、甘いロマンス、夫婦愛、、、
見どころは沢山あり、登場人物達はみんな愛おしい。
子供向けじゃないけど。
子供向けなら、アーヤと魔女もいい。
実は、駿が企画で最近のだというので、一応これもDVDを借りた。
世評は芳しくないのでどうかと思ったが、いやいや、これは面白かった。
何もメッセージがない。不機嫌、不穏当にシフトしたキャラクターたちがバタバタするだけの話で、みんなアーヤに優しくなって(よく見たら不機嫌だったサブキャラ達がエンディングではそうでもなくなってるんだね、、)お母さん帰ってきてよかったね、で終わって、なんにも後に残らない。
主人公の性格が最後まで程よく悪く、改心なんてするわけもなく、かわいい表情も見せるが基本アグリーなのもいい。
作業場の床の汚さや薬の悪臭の表現も上手い。こんなとこに居たくない感じが凄く伝わる。
一方、ジブリ飯はちゃんと美味そうだ。変なところで律儀だ。舞台はイギリスなのに。
すごく褒めてるけど、じっさい、過小評価されてるんじゃないかな。
何がいけないって、宣伝のキャッチコピーだ。Wikiからの引用だけど、
「わたしはダレの言いなりにもならない。」
「私のどこが、ダメですか?」
ダメでしょ、こんなの。
なんだか主人公の自立っぽくて自己評価がどうこうっぽくてメッセージあるっぽくて、胡散臭い。これで勘違いさせられた客が見て、何も残らないから駄作と言うのだ。
映画と客で全く価値観がずれまくっている。
しかし褒めといて難だが、2千円は高いかも。もう一押しかな。レンタルで200円で見るなら全然文句ない。
あ、子供向けなら、と書いたけど、あんまり道徳的なアニメじゃない。そういうのが嫌いなら向かないかもしれない。
へんな宣伝打つよりは、今回の君生きのようなやり方の方が、
誤解がなくて余程いいと思う。
アングラが作るファンタジー映画なら、そういうもんなので普通に宣伝すればいいのだ。しかし、君生きはジブリでメジャーだから、誤解されないアングラファンタジーの宣伝は難しいと思う。
とりあえず僕が思いつくのは、諸悪の根源であるキャッチコピーは、なし。予告編は、音なし。いや、音は久石譲のピアノのみとか。映像以外に全く説明がないなら、何とかなるかも。アメリカ向けトレーラーは、その辺り、いい線いってると思う。あれ見てもほぼ何も分からないという意味で。
与太話は、そんなとこで。
2回目を見ての評価は、とりあえず、この映画は好きだということだろうか。
しかし、もう少し分かりやすくてもいいのに、とは思う。
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