Aug 18, 2023

ジブリの「君たちはどう生きるか」を観て

お盆も過ぎたので、そろそろネタバレ気にせず考えたことを書いてもいいかと思うので書いてみる。
そうはいっても、それは見たくないという人もいるかもしれないので、下の方から書き始めている。

2回目を観てきたので、レビュー2本目を書いた。
http://blown-lei.net/endive/blosxom.cgi/letterbox/20230914a.html
まだ観てない人は、こうしたエントリーを読む前に、1回観た方がいいのではないか、と思う。

さらに追記。
3つ目を書いてしまった。
http://blown-lei.net/endive/blosxom.cgi/letterbox/20230916a.html

9月20日、追記。
うちのレビューを読もうかという人へ。書かれた順番に読まれることをお勧めする。

最初のは「混乱して、分からんことがあるなりに書いてるなあ」というレビュー。
2つめは「見落としを確認して、言い訳を書いてるなあ」というレビュー。
3つめは「幻惑されてたことに気付いて、多少は考える頭が戻ったかなあ」というレビューだ。
しかし、内容は概ね重なってないので、3つでセットだし、そのほうが内容を理解しやすいと思う。

なお自分用のメモでもあるので、今後も何か思い付いたら補足を追記する。

9月27日、追記。
4つめのレビュー。いちおう、まとめだ。
http://blown-lei.net/endive/blosxom.cgi/letterbox/20230927a.html

僕が「君たちはどう生きるか」を観たのは7月18日だった。以降、感想をX(もとツイッター)に書き込んでいるので、先ずは引用していく。

7月18日

ジブリの観てきた。 枯れてるのかと思ってたら逆だった。
詰め込み方が上手いんだろう。とてつもなく濃いが喰えた。ゲテモノ度が高い気がする。これが駿の誠意なのか。
タイトルは、もうちょっとましなのつけりゃよかったのに。投げやり感漂うぐらいが風通しがいいとでも。

いろんな群れが出てくるなあと思った。群れるものと群れないものの対比。

8月7日

今回は音楽が良かった気がする。ピアノだけ鳴ってる場面が多かった。
8月9日発売なので聴いてみたい。

あと今回は、音響が良かった気がする。効果音と言うのか。
いちいち生々しかった。
ただ、他の作品と比べる術が僕にはない。

君たちはどう生きるかを傑作と呼ぶ気にはなれない。
そういうのは千千とかコナンとかカリ城とか、話の纏まりがあって訴求性が高くないと言いにくい。

観る者に大して挑みかかるような作りになっていることが、過去作よりずっと、観る者に分かりやすくなってるんだろう、と思う。
極めて変な映画だ。

観た者は、たぶん多くがなんじゃこりゃと思う。そう思ったときに、傑作という者とゴミという者が別れまくる。
そもそも、鳥の糞、多すぎ。
異物まみれの映画を僕等は突き付けられるのだ。
今までも異物が多かったけど、今回は現実もファンタジーも共に異物にされてる。
今回、オブラートが殆どない。

メジャーな映画ではなくアングラな作りになっている。
考えてみたら、昔はアングラな映画が数多くあった。

今回、ジブリがアングラ映画を作ったんだと思う。
ストーリーも昔のアングラファンタジー映画っぽい。

そう、僕は懐かしいと思った。
20代の頃にこんな感触のをよくレンタルビデオで観た。

アングラファンタジーなら、意味不明なタイトルも、エンディングの突き放しっぷりも、ありに見えてくる。
宣伝費はかけられない。下手な宣伝はできない。

この奇妙な感触が、昔馴染んだものだと気付くまで、3週間かかった。

最近、触れることがなくなった。
世界が変わったのだろう。

8月14日

この映画の周辺、勝手に理解しろ的に、昔のアングラ映画みたいに、情報がなくて、観た者を突き放している。
多分、暫くは何も出ない。

うちの子とか見てると、分かりやすくてスピーディに話が進まないと見る気がしないようなのだ。
そういうコンテンツばっかりになってるのが、駿は嫌なんだろう。

こんな感じだ。
自分としては、決して否定的ではない。
世間では、パンフレットが発売されたが何も書いてない、詐欺だ、表紙も鷺だと盛り上がっている。駿達はそれ見てニタニタしてるんだろう。悪質である。アングラに似つかわしい。

思っていることの骨子はだいたい上記引用で済んでいる。
1回だけでは理解してないこと、気付いてないことがありそうなんだけど、2回目観るのは今はまだ気が進まない。いろいろ事実確認するとか、そういうことする映画じゃないという気がする。なんでか分からないが。アングラだからだろうか。

この後は、個別の事象について思い付きを書くので、いろいろ雑談だ。大したことは書いてない。
何かあったら追記するかもしれない。

序盤、オープニングから戦争で始まる。主人公の母親が焼け死んでしまう。
1年後、主人公は父親の都合?で転校になる。
転居先には、新たに母になるという人がいて実母の妹で、という。
そういう現実でしんどくて、という話が、大変なクオリティの画面で描かれる。主人公の表情も硬い。

エピソードがいちいちえぐい。
新たな母になるなつこさんは、対面初日にいきなり主人公の手を取って、子供がいると言い腹を触らせる。どうにも危ない人だ。
新居は非常識なぐらい古くてでかい屋敷で、そこに戦闘機の風防が多数、置き場がないからと父の指示で持ち込まれ並べられる。それを見て主人公は「きれいなものですね」と。そんな感想かよ。
主人公は学校では周囲からハブられ、喧嘩の後で自分で石を拾って側頭部に流血の自傷行為。父親が学校に持ち込んで騒ぎに。たぶん主人公の計算どおり。

まあ、そんな感じで、いちいちなんだかメンタルにグロテスクで違和感を増幅し神経に触る。
主人公に感情移入もしにくい。
なんか、いじけきってる。観客の感情移入を拒む雰囲気があるのだ。
駿、今回は手加減ないな、と思っていたら、、、

変な鷺がいて、主人公の部屋の窓から主人公に絡む。主人公は追い払うんだけど、その際に、この鷺、窓枠に大量の糞をしていく(脱糞するシーンはなかったと思う。飛び立った後に、窓辺が汚れているのが描かれている)。主人公は気付いてか知らずか、鷺が飛び去って直ぐに窓を閉めるんだけど。あれって、あとでおばあさんたちが掃除したんだろうな。
まあ、鷺って、そういう鳥というイメージあるけど、駿、それをアニメーターに描かすか(どういうやりとりがあったやら、、)。そして、我らに見せるか。どういう気で見せてるんだ、半ば擬人化した鷺なのに。
この時点で僕は、今回はやっぱり相当えげつないんだ、と思った。
観客に、気持ちよくなって帰ってもらおうという気は更々ないということだ。

しかしそんな殺伐たる雰囲気の中で、主人公は亡き母から送られた本を見つけて、読んで、涙する。
ここから、主人公が能動的に動き始める。
頑なな雰囲気がとれて、ガードが外れる。
なんというんだろう、この映画のメッセージその1は、本読め、ってことだろうと思う。本読んだらこれだけ自由になるんだよ、という。まあ、そういう場面。
大好きな母から送られた本だからだろうって?、そりゃそうだけどさ。

僕自身も10代にこの本を読んで、良い本だったという記憶はある。内容はほとんど忘れてしまっている。他者との繋がりについて書いてあったことが印象に残っている。印象だけが、残っている。

なんつうか、ジブリ映画のメッセージ性ってあるにはあるんだろうけど、個人的にはそんなのは映画の良し悪しには関係ないと思う。そして、個人的な感動の鍵というのは人各々で異なるものだろう。
閑話休題。

中盤、主人公は、鷺を追って、異世界に呑み込まれていく。
いろいろなイメージ、オマージュが描かれる。それらに見入るだけでも酔える感じ。

ここでいいなあと思ったのは、石室?の中に閉じ込められたなつこさんが、救い出しに来た主人公に対して「大嫌い!」と叫ぶ場面。
式紙達(?)からの攻撃を受けながら、主人公は初めてなつこさんに対して「おかあさん!、なつこおかあさん!」と返す。
単純に相手が好きだとか、すっかり全てを受け入れて、とかじゃなく、いろんな気持ちが絡み合う中で、互いを確かめ合っていくような、大事なとき、大事なタイミングで、それを行っていく。そして乗り越えていく。
そんな場面。
心を閉じたままでは、前に進めない。
主人公は、ここでなつこさんを母として受け入れる決断を、自らに下している。
唐突で主人公の気持ちが分からないという人もいると思うのだけど、たぶん、主人公自身も何でなのかとか考えて分かってやってるわけではないのだ。その瞬間に、こうしたい、こうしないといけない、今すぐじゃないといけない!という思いが、あの場面を作った。
そういうリアリティが、あの場面にはある。この場面を観れただけで僕は、元は取った、と思った。

じつは、この文面を作る数日前に「コクリコ坂から」を初めて観た。家族がテレビ放映を録画しておいたんだけど、そのままになっていたのだ。
期待してなかったんだけど、心の描写は、ちょっと感心した。
心理的にどうとか、台本がどうかとか、そういうのではない。
こういう言い方はあれだが、普段のくらしの中で人は「完璧な台詞」を言えるものではない。「完璧な演技」も出来ない。まあ、映画のようにはいかないのだ。ぎこちなかったりズレたりする中で、試行錯誤しながら気持ちを通わせていくものだ。
そういう「努力」をしているのが垣間見られる、そういう描き方が成されている。微妙にぎこちなかったり、逆に思い切りが良かったり、何考えてるのか不明だったり。
そうなるのが本来、自然であり、そうでないと本当は、人を取り巻く世界は動いていかない。
これは、最新作の表現にも引き継がれている、と感じた。
駿の描き方なんだろうか。どこまで意図的なのか。そこは、よく分からないのだけど。

20日、追記。
なんと、コクリコ坂は駿ではなく、吾朗監督だそうだ。適当にやってるからこういうポカをやらかすのである。
駿は脚本で、監督は吾朗だ。

しかし実際のとこ、石室のシーン以外はいつもの駿だと思う。あそこだけ、なんだか異質なのだ。それに驚いたというのがある。

31日、思い出したので追記。いつもの駿じゃないシーン。
まず、オープニング。火事の中を主人公が病院に走るシーン。駿にしてはシャープすぎる。いい意味で。この数分間が凄すぎた。
次、なつこさんが弓を射て主人公を守るシーン。あと、主人公が青鷺の羽根で作る矢の飛び方。ここら辺りはかっこよすぎる。
そんな感じで、いい意味で驚かされる場面がある。

それにしても、なつこさんが弓を射るシーンは謎だ。
物の怪と対峙できる女性として描かれていて、おなかに子を宿して戦う人になるのかいな、と思ってたら違う方向に行った。
だけど、既にあの時点で半分異界に足を突っ込んだ人なのだ。いつから突っ込んでるのだろう、とか。

9月22日、追記。
他のサイトのレビューで、あの場面は真人(主人公)の夢だ、という説明があった。
言われてみると、なるほど、だ。
そう受け取る方が、あのエピソードを理解しやすくなるように思う。
実際、そのあと真人の看護をしに来たおばあさんが「夢でも見たんでしょう」みたいなことを言っていたと思う。

9月25日、追記。
あれが夢だとしたら、真人となつこさんは、たぶん、共に病床の中で、同じ夢を見たのだ。

終盤、ひみちゃんと鷺男と主人公の活躍。
やっぱり画面は美しく、そこに溢れるマンガチックなインコたち。なんでこんな、マンガなんだろうね。そういう描き方される理由もあるのだろう。まあ、リアルタッチだったらマジ怖いしな。

僕は気付かなかったんだけど、ひみちゃんは主人公になつこさんのことを「妹」と言ってるらしい。一緒に観に行った家族がそういうのだ。だから、主人公はひみちゃんは実母と知っていると。
えぇぇ、そうかあ?、、、
僕は気付かなかった。だから、主人公は知らないままに現実に帰ったのだと思っていた。どうなんだろうか。知ってたら、話の展開が違ってくると思うのだけど。 これは、そのうち2回目観るときに確かめようと思っている。

主人公が、大伯父から異世界を引き継ぐよう言われて断る場面、淡々と描かれて、全くドラマティックじゃないんだね。大伯父も、ああ、そうかい、という感じで受け入れて。
インコが暴れて世界がガラガラ崩れて、周りはドラマティックなんだけど、ひみちゃんも主人公も、思いは定まっててゴールを目指すだけなので、そういう意味では、淡々としたエンディングだと思う。
観てるこっちは、いまいち盛り上がらないというか。勝手にやってるなあって、置いてけぼりというか。
崩壊と帰郷という意味では、ラピュタとかもそうだけど。いや、他の駿の作品でもそういう構造があるのはあるのかな。

しかし、何というのか分からないが、僕は、静かな崩壊だなと感じていた。
その世界の中での大事。
そんなことより、主人公にとって大事なのは、帰ってからの世界なのだ。 なんというか、駿から「さあ終わりだ、帰った帰った」と言われてるような、そういう終盤だったような。鳥の糞まみれな画面についての解釈は、まあ、あまりにも印象が強いので、ここでは敢てしない。

映画作品そのもの自体以外から観客に与えられる情報が少なく、映画自体は描きたいものの詰め込みで、一見、とっちらかっている、かのように見える。しかし、そういう見え方でも、ちゃんと考えて並べられているんだろうと思う、たぶん。
でも、考えすぎても意味ないんじゃないのかなあ、という気がする。それが僕の観終わってからの感想だ。美味しい料理の皿はいっぱい並べられている。どこからとって食べてもいい、バイキング形式というか。そういう観かたをしてもいいんだろうなと思う。

最後の、穏やかな日常の画面がきれいで良かったと思う。

20世紀のアングラファンタジー映画はそういう終わり方が多かった気がする。
最近は、ああいう映画はどこかで作られているんだろうか。
21世紀は、あんな牧歌的な世界観は、現実に押しつぶされてしまったような気がする。
でも人の営みは変わらない。押し流されそうなときでも、いや、ときにこそかな、忘れずにいられたら、ということがあるだろうと。

こんなレビュー(?)を挙げるのは僕としては珍しいのでどうしようかと思ったが、アングラ映画に対しては、レビューを捻ったりするのが似つかわしいと思うので。

まあ、そんな感じだ。1回観ただけじゃ分からないね。

8月も終わるので、ネタバレ追記。
つうか、僕が思いついたことだけど。

タイトル、なんでこれなんだというか。
主人公が異世界から持ち帰った「石」、青鷺が「御守になる」と言った、あの石こそが「君たちはどう生きるか」なのだ。
つまり、亡き母が託した、主人公が泣いた、あの本だ。

あれが御守りになって、主人公を守った。
たぶん主人公は、年を重ねるに連れて、本の内容を忘れていくだろう。でもその本を読んだことで、自分の心、魂が守られたことは、心の奥底に残るのだ。どんなにその本が大事だったかを、すっかり忘れたとしても。

そう、「作品」は「御守」だ。
駿は、観た人の御守りになる作品を、後に忘れ去られたとしても、その時はその人を何かから守る御守りになれる作品を、作りたいと願ったのだろうと、僕は勝手に思う。

この作品のタイトルに「君たちはどう生きるか」を持ってきたのは、2つの意味がある。
ひとつは、若い後輩へのメッセージ。どういう気持ちでクリエイトしていくんだい?という問いかけ。
これは分かりやすい。

もうひとつは、作品の中で数分しか出てこないこの本の存在が、実は重要なんだということを明示するためだ。
作品に触れることが人に何をもたらすかを序盤に示し、更に主人公が「異世界から現実に持ち帰る御守」という形で示し、それが、いずれ忘れられていく運命であること、そして、それでいいのだということを示した。
駿は、そういうことこそが大事なのだと示したのだと思う。

さて、話変わるけど、
そうなると13個の石というのが駿の作品だと言われているが、実際どうなのか、と思ったり。
まあ、そういう解釈もありだ。でも、大叔父は駿とは関係ない、ただの作中のキャラクターだと解釈したら、たぶん大叔父の頭の中にある、あの異世界の元ネタが13個あるよ、という意味なのだ。
ほんとかな?w。

まあ、こんなとこかな。

Posted at 16:23 in letterbox | WriteBacks (0) | Edit Tagged as: