Dec 21, 2017

「おんな城主 直虎」が最終回を迎えたり

おかげさまで1年間、楽しませていただきました。

放送中は視聴率が振るわないとか下らない理由で内容のない意味不明なレビュー記事がビジネスニュースのサイトとかに書かれたりしていたけど、今となっては過去の事とされているようだ。練りこまれた台本、台詞回しの凄さ、それに付いて行く役者の演技に魂がこもっていること、などなど、あちこちで今更のように語られている。

しかし、僕なりに感じた直虎の他では見られない魅力というか深淵というのか、この場で書いておこうと思う。
僕は不勉強なので、ありふれた内容の文面かもしれない。予めまとめると、直虎というドラマは異界と隣り合わせの現世を描き切ったことで成功したということを書いている。

どこから手を付けたらいいか。
だらだら書いていく。

この10年以上、僕にはTVドラマを見るという習慣がなかった。
今年の大河、女房子供に付き合う形で見ることになった。女房は歴史オタクで大河にはうるさい。女大河はいまいちなのが多い、「戦さはいやじゃ!」とか言って押し切るからリアリティがない、などと聞かされながら見始めた。

しかし、いきなり僕はオープニングタイトルにもっていかれてしまったのだ。
見てるうちに、不覚にも涙が出てしまった。
そんなドラマ体験は今までないよ。
もしもドラマの内容がダメでもオープニングタイトルだけ1年見てもいいかもな、などと考えた。
それだけ考えて作りこんだ映像、音楽だったと思うし、直虎というドラマの主題がとても上手く表現されていて、長いタイトルにもかかわらず中弛みなく最後まで見てしまう。ドラマ本編で何が語られるのか、オープニングで視聴者にも感じ取れる、いいオープニングタイトルだと思う。

次に、子役かな。
子役が子供の頃の役をするなんて当たり前のことじゃないかと僕なんかは思ってたけど、最近はあまり重視されてなかったらしい。子供時代がきちんと描かれ、しかもこの子役が馬に乗ったり(!)、坊主になったり(!!)する。
このドラマは本気らしい、という気分にさせられる。
ちょっと、こっちも本気で見ないといけないかなというモードにさせられていくのだった。

その子供時代に、竜宮小僧なる謎の言葉が出てくる。あと、井戸が。
異界につながるような井戸が。
この井戸のそばで、登場人物たちは胸の内を語り、ドラマの行く末が決まっていく。異界への窓がぽっかり開いている村では、坊主たちが頻繁に行き来し、主人公もまた尼になっているのだ。そして度々、登場人物たちが井戸端で死者を思い酒を飲んでいる。

このドラマでは、異界の傍に人間界があるということが最初から構造化されているのだ。
最初はそのことには気付かない。
あまりにも自然に、そこにあるので。
しかしドラマの中、そこかしこに、ちらりちらりとそれが異物として顔を出す。
台本は、歴史考証はしっかり踏まえながら新たな解釈を盛り込んでおり役柄の心理描写もすばらしくリアリティがあるのだけど、そこかしこに顔を出す異界からの使者、信号は、このドラマに独特の奥行き、ゆらぎを生み出している。

例えば、徳政令の回。
驚かされたのは亀が演技をしたことだ。
神社で直虎が徳政を受け入れ花押を書こうとしたところ、亀がどこからともなく現れて止めるのである。
見ていたこっちは、これは凄い話だと思った。
そもそも、亀が出てくる必要性は筋書き上はないのだ。直虎本人が1人で決心しても筋書き上は問題ないのだ。でも、でも、亀が止めるのだ。

直虎というドラマでは、亀が直虎を止めることに意味がある。
今から思えば、この展開を受け入れられるかどうかで、たぶん視聴者の篩い分けが成されたのだ。亀を受け入れることで、視聴者はこのドラマの魔法に絡め取られたのだと思う。

最初、僕はそれを「中世らしい感覚」なのだと思っていた。戦国の世を生きる登場人物たちの心理が、当時の宗教観世界観も含めてうまく脚本化されているから、現代人の感覚とは違う死生観、人生観が表現されてドラマにリアリティを与えているのだと。

でも、毎週見続けるうちに、どうもそれだけじゃないと感じ始めた。
心理描写、戦国社会の描写とは別に、彼らを取り巻く世界の表現が、現代的なリアリティから逸脱しているのだ。前述の亀の件もそうだし、空に龍雲が現れたり、信玄を寿桂尼が呪い殺したり、離れているのに同じ手筋で碁を打っていたり。そして、死者から遺されたものが生ける者を動かす力を持つ。
アレルギーに対する減感作療法のように、少しずつ視聴者のガードが崩されていく。

これを「中世らしい感覚」と言って良いのか分からない。
当時は祈りや呪い、迷信が現代よりもずっと深く意味を持っていた時代。世界の成り立ちも、現代とは違っていたんだろうか。点在する目に見えるエピソードと、通奏低音のような何か、それは竜宮小僧の存在感かもしれないし、積み重なる死者たちへの思いかもしれないし、心のうちを隠さなくては生きていけなかった人たちの心の声の行き場なのか。そうした不思議な世界が、こっそりと、しかし実在感を持って描き出されている。
迷信を信じてしまう心性は現代を生きる僕らの心の底にも息づいている。直虎を見ていると、なんというか、それが蠕き始めるような、そんな感覚があるのだ。

その結果、視聴者はどうなるか。直虎が政次を槍で刺すのを受け入れるようになるのだ。
そう、あの名場面、かなり話題になったあの場面。
しかし、考えてもみなよ。
最終回終わって一息ついて覚めた頭でもう一回考えてみようよ。
あんな、とんでもない話ってあるか?
直虎が、政次を刺し殺しちゃうんだよ?
ほんとにあれって究極の信頼関係って涙したりして、本当にそれでいいの???、、、

僕は思うのだけど、あれが通用したのは、視聴者が受け入れることが出来たのは、直虎の舞台が異界とつながった世界、現代人の感覚から外れた世界だということを、みんなが心の奥底で受け入れることができていたからだと思うのだ。
このドラマは、意識してかどうかは分からないけど、そういう構造の下、従来の大河ドラマが絡め取られてきた現代人のリアリティ感覚という縛りを、無化することに成功したと思う。
というか、直虎の世界で通用するリアリティを獲得したというか。
政次ロスが通用する世界観を予め構築できていなければ、あんな場面、絶対に視聴者に受け入れられなかったはずだ。それがこのたび、制作者も視聴者も、これだよね!って感じで受け入れ演じて観てしまった。
あの場面はまるで、神話の世界のイコンか何かが現れたかのようだった。

そして、その流れに乗ったまま、最終回を迎えたわけで。
最終回では、直虎の死に際して、笛が万千代のもとから直虎のところまで飛んでいく。
笛の音を聞いた直虎は子供に戻って願いがかなう未来を見に行く。
最後のシーン、直虎が死後の世界で過ごしている場面でドラマは終わる。
異界、死後の世界が現世の傍にあるという世界観を、あからさまに表現した、そんなファンタジックな展開が全く不自然じゃなくて、むしろ感動的な必然に感じられて、すばらしい最終回だったと思う。

直虎は、制作側と視聴者側ともに、独自の世界に巻き込むことに成功した。
おそらく、これは直虎を主人公に選んだから可能だったんだろうと思う。
半身を異界にかけたような存在でいながら、大河ドラマの主人公を張ることが出来る歴史上の人物は、なかなかない。史実となる資料がほとんどない直虎だから逆に、リアルでありながらファンタジックな実在感を描き出すことが出来たんだろうと思う。
史実が多い人物はファンタジックにできない。下手したら荒唐無稽になってしまうからだ。

そういう意味で、直虎を超える大河ドラマを作るのはかなり難しいはずで、唯一無二となるかもしれない大河を最初から最後まで楽しめた僕は幸運だった。ドラマという異世界で1年間遊ぶことが出来た。単に良く出来たドラマを見たという以上の、不思議な感覚を楽しむことが出来た。

22日、今更分かりやすい言い方を思いついたので追記。
直虎に関わった者はみんな、製作側も視聴者も、竜宮小僧の手の上で遊んだのだ。
徳政令の回、竜宮小僧は亀になった。
その後、竜宮小僧の影は薄くなったかに見えたが、それは竜宮小僧が亀となり直虎宇宙の底を支えたからだ。
ほら、インドの言い伝えでは宇宙の底に亀がいるでしょう。
そういうことなんだ。

年末年始には総集編があるらしい。
http://www.nhk.or.jp/naotora/info/program/article51.html
こんな濃厚なドラマ、半日で尺が足りるんだろうか。どう料理されてるか楽しみだ。

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