Sep 27, 2023
ジブリの「君たちはどう生きるか」レビュー総まとめ(なんとか収拾をつけんと試みる)
さて、過去のレビューはこちら。3つもある。
ジブリの「君たちはどう生きるか」を観て
http://blown-lei.net/endive/blosxom.cgi/letterbox/20230818a.html
ジブリの「君たちはどう生きるか」2回目を観て(風立ちぬとアーヤと魔女もちょびっと)
http://blown-lei.net/endive/blosxom.cgi/letterbox/20230914a.html
ジブリの「君たちはどう生きるか」を俺はどう楽しむか(レビューその3)
http://blown-lei.net/endive/blosxom.cgi/letterbox/20230916a.html
上記の通り、過去に3本のレビューを書いているんだが、まだ、総論的なことを書いていない。
なんで分かりにくいのかとか、部分やエピソードをどう解釈するのかとか、ちまちま書いてきてるが、この映画は何なんだ、どうすんだ、というのは書いていないのだ。
だから、少しだけど書いておくことにした。
何かがないと座りが悪い。
しかし、これって、総論なんてものになっているのだろうか。心許ないが、まあ、これで最後だろう、さすがに。
まずはお断りしておく。
僕は、青サギが鈴木プロデューサーで、塔がジブリでとか、そういう解釈は全く興味がない。
というか、数億円以上の金かけて2時間のアニメ映画を作って、内容の中心がそれってことは、そもそも有り得ない。
いや、知らないよ?、駿がそういうつもりで作った可能性は否定しない。
しかし、そんなアニメ観て、誰が楽しいのか。
だから、うちでは、そういう感じじゃなくて、普通のレビューを書いている。
普通に観客として観たら、何が気になって、何が分からなくて、何を面白いと思ったのか、そういうことを書くレビューにしている。意図してそうしてるというより、そういうのしか書く気がしないからだ。
世間でそういうのが少ないように見えるのは、ネタバレにならないように注意してる人が多いからだと思う。
逆に言えば、青サギは誰かなんて、本質じゃないということだ。
しかし、
パーツに理屈を付けるのに汲々とする気持ちは、分からないではない。
なにしろ、君生きは、分かりにくい。
もともと駿のアニメは、分かりにくいのが多かった。
もののけ姫あたりからそうなった。それでも千千とかはストーリーを読めたけど、ハウルとか意味不明だと思った。
今回、さらに分かりにくくて、多分、わざとだ、というのは過去レビューに書いた通り。
そして、こんなに分かりにくいアニメだと、分かるところから手を付けて、とにかく落ち着きたい気持ちは分かる。
本質じゃないところでも齧っていったら何か出て来る。そうでもしないと、分からないままでは、観客としては、納まりが付かないのだ。
僕なんかはたぶん、暢気な方だ。
せっかちな人だったら、投げ捨ててるだろう。
でも、だからといって大伯父は駿だと言われたって、こっちは何にも、ひとかけらも、面白くないのだ。
あと、元ネタだという「失われたものたちの本」も読んでいない。
読んで比較したら、駿が追加したものが何かが分かると思うのだけど、そこまでする余裕はないし、僕にとっては本質的なことではない。
前書き終わり。
とりあえず、今迄のレビューで何を書いたかをまとめる。
ひとつめのレビューで述べたのは、
1)タイトルになった本の重要性(上の世界での在り様、下の世界での現れ方、真人の石について)
2)なつこさんと真人の関わり、他者との関わりがどう描かれているか
3)下の世界の崩壊が、静かな印象だったこと
ふたつめのレビューでは、
4)風立ちぬとの比較、関係
5)ひみちゃんとひさこさんと真人について(観客にとって分かりにくいことについて)
6)ひみちゃんが上の世界に帰るために真人と会う必要があったというアイデアと、大伯父の意図
みっつめのレビューでは、
7)時系列からの考察(関東大震災、富国強兵について)
8)ヴァルハラとの類似について(ワラワラとキリコさんについて)
9)ひみちゃんとひさこさんと真人について(母子関係についての駿の表現について)
ざっとこんな感じ。
上記のように、ある程度まとまってる項目もあれば、キーワードだけなので上には挙げなかったみたいなものもある。まあ、いろいろ考えたものだ。
こうして考えていることがどういうことかというと、
結局、「僕のための君生き」がどういうものなのか、自分の中での構築を試みている、ということだ。
落ちてきた訳わからん隕石を、自分に合わせて建物でかこって体裁整えるようなものかもしれない。
僕にとって、作品に触れ、理解するとはそういうことだ。
過去に触れた多くの作品の中には、内容を理解できず、世界観を構築しきれなかったものも少なくない。しかし、途中で投げ出したくなったり、訳が分からないと思うのを、自分のものになんとかして、ようやく、その人にとって意味を持つものになるのだと思う。
作品に触れることは、他者に触れることと同じだ。
なつこさんと真人も、お互い、相手が何者なのか分からない。
しかし彼らは、彼らが抱えた問題を、ああ見えて、あの場面でなんとかしたので、上の世界に笑って帰ることが出来たのだ。
いや、本当はあの世界に降りる前、真人を誘う青サギをひさこさんが矢で追い払った、あの夢(2人は同じ夢をたのだと、僕は思う)、あの時点で、進む方向は、彼ら二人の心のうちに、できていたかもしれない。つまり、母子として、守り守られる未来の関係が、夢として現れていたのだと思う。
ひさこさんは、若くして亡くなった。小さい真人は知っていても、母を失いながら成長した真人の痛みは知らない。
真人は、母のことを、どれだけ知っていただろう。母親の思いを知るには、まだ幼い。
運命の狭間で、伝えられなかった思いを伝え合うことが出来たら。なくしてしまった石のかけらのようなものでも、大事なものだったかもしれないのに。
彼らは、大伯父の世界で会うことができた。そして笑って、上の世界に戻れる。
下の世界は、困難を抱えた、あるいは現実には不可能な、そんな関係をつなぐ、一種、奇跡的な廻廊だ。
大伯父が石を積み、それを具現化させている。
真人自身が、下の世界でその恩恵を受けて、たぶん、その自覚もあるはずだ。
それでも真人は、下の世界を引き継ぐことを拒む。それは、大伯父が作った世界に救われたのではなく、母親が「上の世界で」与えてくれたものによって、今の自分自身があるという気持ちが強いからなのだろう。
君生きは、観客にとって、真人にとっての青サギのような意味不明な何者かだ。周りからは何を考えてるのか分からない心を閉ざした真人みたいなものだとも言えるかな。宣伝しないのはそういうことだ。あのポスターは伊達じゃない。
たぶん、駿は、そういう存在になるように君生きを作ったのだろう。
どう読み解けばいいのかは、君生きの中に描いてある。と、たぶん、駿は言うのではないか。
そういえば他の人のレビューだと、他者性は、青サギと真人の関係で語られることのほうが多いようだ。
僕の場合、なんだかそこには引っかからなかった。
過去の駿の作品で、他者はどう描かれていただろう。
僕は熱心なファンではないので、自信はないが、明確に「他者とどう向き合うか」を、テーマに据えた作品はなかったように思う。
ナウシカでは、風の谷とトルメキア、あるいはナウシカ自身とそれ以外の人といった、理解し得ない関係が多々描かれた。しかしそれらは、物語の流れの中で、中心的な命題とはならないまま過ぎ去った。
ラピュタでは、パズーとシータにとってムスカは敵で、理解し合うことは不可能だった。ドーラとは仲間になるが、そこに葛藤や迷いは、描かれなかったと思う。
魔女宅では、少女が他者との関係を模索する姿があった。分かり得ない他者というより、キキ自身が自分を取り戻し成長するに伴い、他者は仲間になっていった気がする。要は、深くは描かれていないのだ。成長したら上手く回るってもんじゃない、と当時、僕は思った。しかし、成長するのは大事だ。成長したから上手く回せるっていう面もある。
紅の豚では主人公自身が、豚になって世界の他者になっていた。しかし、豚は何故か世界によく馴染んでいるように見える。なんというのかな、豚は、たぶん、ジーナさんにとっての他者になったのだ。自分にとっても他者になったというか。まあ、君生きの大伯父に近いキャラなのかもしれない。
もののけ姫は、他者ばかりが集まった作品という気がする。アシタカとサンは、予め他者どうしで、最後まで他者だったように思う。あれは、そうした物語だった。両者は既に確固たる大人であり、自分の世界があるのだ。
千千、子供が他者だらけの異界に放り込まれる話で、まあ、サバイバルだ。しかし中には助けてくれる人もいる。なんというか、必死なので、泣いたとしても悩んでも内面的な葛藤に目を向ける暇はないような気がした。そして、そういうタイプの物語でもない。
ハウル、、、わからん。実はよく覚えていないのだ。意味不明だったという記憶はある。
ポニョ、こっちも詳細はよく覚えていない。子供が人魚と将来を誓い合うというアナーキーな話だ。たぶん、難しいことは考えてない。
風立ちぬは、大人の映画だ。君生きに無いものがここにある。そして、君生きの主題はここには無い。
10月1日、追記。
ハウルを見直してみた。なんで意味不明だと思ったのか、まったくわからない、、、
思いっきりエンタメに振ってると思った。そして、傑作かも、と思った。、、今の時代のせいかもしれない。
どうだろう。
こうしてみたら、意外に、君生きに近いのは、紅の豚なのか。
ジーナさんとフィオ、なつこさんとひみちゃん、世代が違う女性2人が主人公に絡むし、物語の最後で、豚は人に戻り(一瞬だけど)、真人は上の世界に戻り、大伯父の世界は崩れる。ひみちゃんはキスはしなかったけど、それに近いことを言ってのけた。そしてたぶん豚がジーナさんを訪ねたように、真人はなつこさんの息子になる。
いやいや、そんなバカな。全然違う話じゃん。
まあ、でも、そういうことがあると言っても通用するかも知れん。それぐらい君生きは分かりにくい。
しかし、こんなんでまとめになるだろうか。
収拾がついた気がしない。まあ、いいか、である。
収拾が付かないところになんだが、
6)ひみちゃんが上の世界に帰るために真人と会う必要があったというアイデア、について。
これも、豚がフィオのキスで人に戻るというのと、位置付けとしては同じなんだね。
まあね、男の子はね、単純だからね、それでいいかもしれないんだよ。
でも、うーん、、、
女の子ってそうなんかね?
息子がいい人だからって、火事で三十路?で死ぬ現実に戻るだろうか。女の子だったことがないので分からないけど、、、
ひみちゃんは、火事で死んだ大人のひさこさんと、母を震災で亡くしたひさこちゃんが、一体化したものだから、むしろ、大人のひさこさんが、息子の様子を見て安心したことのほうが、上の世界に帰ろうという気持ちになる理由としては、大きいのではないかと思った。
つまり、成仏出来るってことだ。
ここで怖い考えが。
真人が情けない奴だったら、ひさこさんは自分の世界に帰らないかもしれない。
そうなったら、あの世界、上の世界が崩壊する、かな。
タイムパラドックスというやつだ。
それとも、どんな愚息でも、かわいいって言ってくれるんだろうか、、、
まあ、それならそれで、しかたがない、ということかもしれない。
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Caution!!!
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